昭和40年8月8日 朝の御理解 
※上滝勇事件

 (    長い沈黙    )
★昨日珍しいお供えを頂く。と言うのは、私今まで、かつてあんな大きな、ひょうたんを見た事がなかった。3帖はいうに入ろうという大きなひょうたんです。
 ひょうたんと言えば、昔、(?)お茶やら、水やら入れるもんじゃない。ひょうたんにはやはりお酒を入れる。本当に今まであんな大きなひょうたん見た事がない。こんなに大きい。あそこに下げてますから。後で。ね。ところがその、いかに(?)お神酒であり、酒でありますところのものを入れる、入れものを頂いたからというてです、お酒がなかったんではどうにも出来ない。
 いわゆる空ではいけん。ね、ある意味いっぱいのお酒が入れてあって始めておかげだと思う。それを私はいよいよ思うのですけれども、おかげの受け物さえ出来ればおかげが受けられると。私共は今までそういう風に頂いて来た。ね。
 受け物さえ出来れば神様がおかげを下さるんだと。ね。大きなひょうたんさえこちらが持っとりゃあ、神様がそれにいっぱいのお神酒をついで下さるんだと。いうような事なんですけれども、私はそれは反対のように思う。
 ね。受けものが先ではない。まず、お酒そのものが先だということ。まず、お神酒をそのものが先だという事。まず、お神酒を頂かなければ、まず、お神酒を造らなければ、まず、自分の心の中に、ね、御神酒の部分が出来なければ、神様は受け物は下さらんと思う。反対ですね、私が今まで言うて来た事と。

 ある教会の先生がいわゆる私が思うてきた事をやっぱそうと思うて来たのでございますね。受け物さえ作ればおかげ頂けれるとこう思うておった。そこでその、少々無理をして、その、お広前を建立された。ね。いわば広々とした、お広前を作られた。ところが信者は一つも集まってこん。
 依然として、やっぱり淋しいお広前である。三年経っても四年経っても、やっぱり以前と同じである。ね。ところがある教会の先生が信者がどんなにお広前を建立しましょうお広前を建立いたしましょうと言うてきても、「まあ待て待て」と言うて待たされた。いよいよその、お広前が繁盛してきた。お広前いっぱいに人が集まってくるようになった。もう月次祭にそのお広前いっぱいになるようになった。(?)溢れるようになった。ようやく、先生がお広前建立を許された。ときには、その広いお広前がまたいっぱいにおかげを頂いておったとこう言うのである。ね。
 
 受け物ばかり先に作っても中に入れる物がなかったら、自分がお酒をつくらなん、という事よりもです、まず、お酒の溢れるようなです、ね、お酒が溢れるようなぐらいに自分の心の中に、お酒を作っていかなければならないというようなものをです、もういつ見てもあの人は、ね、いつもにこにこして、それこそ(  ? )いつもニコニコしてから(?)いっぱいである。愛情がごぼれよる、というようにです、ね、有り難い、勿体無い、いや、有り難い勿体無いが溢れよる。ね。その、溢れるようなその有り難さがです、まず、先だという事です。
 ね。どうでしょうか、皆さん。成程これじゃまだおかげが受けられんという事が分かる。そこで私共はです、まず有り難くならせて頂くと言う事をです、ね、どのような中にでも、こんなに狭いなかにでも、ね、こんな窮屈な中にでもです、有り難さがいっぱいというようなおかげをまず頂かなければならないと言う事を、私は思うですね。
 どういうような信心をさせて頂いたら、その有り難い、勿体無いというものが溢れるようなおかげになってくるだろうかと。
 
 もう十五年前の話ですね。十五年、十六年も前の話でしょうか、私があちらこちらにそのお話に行っておった時分です。ある人の話を、ある人、久富先生の正義さんのお姉さん、(?)さんのお話を聞かせて頂いて「私の小学校からの友達大変、仲良くしておる上滝さんという人がある。そのご主人が難しかろうような病気にかかって、是非一遍お話に行ってくれんか」というお話があった。
 もう自分はもうそれこそ、お話を聞かせて頂いたらじっとしておられんという時代でございましたから、早速私はお話に参りました。もう、皆さんご承知のように、それこそ風来坊のような格好をしてですね、夏もなからなければ、冬もない。同じような、いつも夏服一枚の北きりすずめのような格好で行くのですから、まあ、胡散臭そうに思われるのも当たり前。
 今考えますと私丁度参りました日に上滝さんの所に近所に中島さん、大和さんのお父さんです。お父さんが、私が一生懸命御祈念しよるとを、(?)みよざった。御祈念が終わって私お話をさせて頂いたら「こん妙な奴が来とるが、もう、(    ?  )なにか、妙なことでんいうたなら、いっちょ俺が、ね、そこに、(   ?   )いわば、小さい子供ばっかりですから、なんかその、妙な風に思われたんでしょう。
 (?)もうあんな事があったのち言うてから、もう先生(?)お父さんがいいよなさったが。そんな時代なんです。
 成程行ってみましたら、もう本当に、この世の人ではないという、状態でしたですね。人間心でいうならもうとても、助かるはずがないと思うたですね。人間心では。それでも一生懸命神様におすがりさせて頂いてから、私感じたんです。
 もう誰が見ても丁度その時に私聞かせて頂いたのですけれども、えー、その当時に、医大の結核の権威といわれる、大変有名な先生がおられた。その方がわざわざ往診されて、もう、これは時間の問題だといわれた。というて帰られた。どこの何何様に参らせて頂いても、ね、どこの○○様に参らせて頂いても、お伺い所に行っても。もうこれは助からんと。ある所に参った所が、丁度、あなた方ご主人がいわゆる、死に装束をつけて、ね、そして、もう、(  ?    )という事であった。

 ある時にはもう、いよいよ終まえた。もう家のものは枕もとに集まってから、嘆き悲しんでおった。自分がやはりもうずーとその、なにか(     ?    )ね。そこに入る1歩手前という所で一陣の風が吹き起こってからですね、ずーと、吹き返された。
 その風に(  ?  )ようにしてから、着いたところが自分の家だった。枕もとではお父さんが亡くなったと言うて皆が泣きよるというように皆が、難しい話を聞いた後お話である。
 私もこれもいうなら、これは助からんとこう、助かる人じゃなかなとこう思うたけれども私の心の中にです、まてまてこの神様は、ない命でも下さる神様なのだと。いや、この神様はこの命を自分に(?)私共人間の幸せ一切のカギを握ってござるところの、神様であり、生死の自由を持っておられる神様であるという事を聞いて来た。
 お話の中に。たくさん。御教えの中にもある。「死ぬる用意より生きる用意をせよ」と仰る。「日に日に生きるが信心なり」とも仰る。
 ね。「無い命でも三度までは助ける」と四神様は仰っておられる。ね。いわゆる、無い命であってもです、本当にこの神様はおかげを下さる事が出来る神様ならばです、一つ、この人、この病人を持って、本当に一つ、私はそれを試してみたいと言う気が起こってきたですね。(  ?  )。
 本当にこの神様はです、命のカギを握ってござるならば、この神様に一心におすがりしてです、この病人がもし助かったらです、私はどういうような、例えば、難儀な時に直面いたしましても、その時の事一つでも私は自身を持って、確信を持って事にあたる事が出来るという風に感じたんです。

 それから私の心の中に、(?)そして、その為の修行ならばどんな修行でも受けさせてもらおうという気になったです。そしてあそこの、いつも私がお供させて頂きよった御神米を床の間において、それから私御祈念をさせて頂いた。

★ところがね、御心眼に頂くのがもう、食べもされんようなブドウの腐れたのを御心眼に頂いたです。はあーやっぱりだめなのかなと思うたです。そしたらね、それを、こう、壺の中に入れる所を頂いた。
 そして、ご理解にもうこれは火葬場行きだと。いうなら、ゴミ箱行きなのだけれどもです、ね、ここに一つ助かる手立てがある。それは、これを壺に入れる事だ、水を汲むことだ、そして、ブドウはもう食べられないのだけれども、これを、ブドウ酒にするならば、(?)というような意味の事をご理解に頂いたんです。
 それから元気が出たんです。その事を上滝さんに話しましたけれどもとても助かるなんて思うてないですからね。皆が、けれども頂いた私だけがその気持ちで、神様に一心にお縋りさせて頂いた。おかげを頂いて助かった。いわゆるぶどう酒が出来た。
 私今日皆さんに聞いておる事は、ね、おかげの受け物、受け物をまず作れと。いかに受け物を作っても、受け物にです、そのなんにも入れるものが無かったらつまらん。まずお神酒をつくることが先なんだと。
 ね。お神酒を造るから、神様が助けて下さるのだ。お神酒を造るから、受け物を与えた下さるのだと言うこと。
 
 それを私昨日、いわゆる3帖も入ろうかという大ひょうたんを頂いてです、ね、それこそ、世にまれな、見た事もないような、大きな受け物ですね。いわば、ひょうたんの3帖も入ろうというのですから。
 これも椛目のご造営なんかは丁度そんな状態のような気がする。ね。これはどうでも、私お互、一同がです、まず、(  ?  )ということ。ね。上滝さんじゃないですけれども、ね、いわば腐ったようなブドウでもです、それに、水を汲んでです、それに、例えば、亀の中にいれです、それをじっとこう密封しておく。蓋をしておく。ブツブツ言い出す。その、ぶつぶつ言い出す所をじっと蓋を開けずに暫く辛抱しておると、そこから、魔法瓶の香りがね、いわゆる(?)である。(  ?  )。もう、辛抱が出来んごとなる。そのようなことでは私いつまで経ってもお酒は出来んと思う。もう、言うたことは言うたけん心はスーとしたち。いうごたる事ではおかげは頂けんと。
 ね。ここが辛抱しどころだと思うてです、今こそ、お神酒がこの中で出来よるときだと思うてです、生神金光大神様と唱え続けさせて頂いてです、本気で馬鹿とアホに慣らせて頂いてです、じっと、辛抱し抜かせて頂く所に、おかげを頂いてよかった辛抱させて頂いてよかった、という、有り難い勿体無いという生活が出来て来ると思うのです。

 ね。そういう、例えば、お互いが一升つづのお神酒を作らせて頂いても、十人おれば一とである。ね、百人あれば一石の酒が出来るのです。そこに始めて一石出来るところの受け物を神様が与えて下さるではないかと思うのです。
 お互いがご造営のことを願われるならまず自分の心の中にです、おかげばっかりを願わずにああなるがいい、こうなるがええと、どうも、可笑しい事がある。どうもスムーズではない。これは神様がです、お酒のほうを先に作れといいござると感じるのです。私は。ね。
 もう一つお酒の作り方が、今なら、ブツブツ言いとう時に言わずにじっと心を神様に向けるということなんですね。蓋を開けずに蓋を閉めて、むしろ閉めて行くという事。
 ね。自分の心の中に毎日毎日、(   ?  )今日もおかげを頂いて有り難しという、有り難いき、いわゆる信心とは日々、信心をすれば一年一年有り難くなって来るという、有り難くなっていくということをです、日々繰り返していくという事である。

 ね。本当の私はお酒が出来るのはです、こういう私は御教えを頂いたことがある。
■「ままにする、米をつぐ人酒にする」と仰る。ね。お互いが目の前の小さいようなおかげがいっちょままになるといったような事ではです、もう、必ず、お米は食べしまいよるけんで、酒を作る余裕がない。
 そうでしょうが。けれどもそこでひもじい思いを致しましてもです、これだけはお酒を作るというとにです、ままになる、いわばままになるのだけれども、お米を頂けれるのだけれども、( ? )それを、(?)犠牲をしていくのである。。自分のおかげなんか犠牲にしていくのである。
 そして、お米を貯めあげていって、その、お米でお酒を作っていくという手がある。これが一番有り難いごたるですね。自分も腹いっぱい食べてから、(?)つまらんという事。ご造営のお供えでもしょうじゃん。儲かったらお供えしようじゃつまらんということじゃん。
 ね。自分の身を削ってでも、犠牲にしてでもというものが私は、本当のお神酒になるのだとこう思う。そうでしょうが。ね。そういうようなものが溜まり溜まり、積り積り、お互いの上に一合づつ、んならその、ままになる、米を食べていってごらんなさい。百人おれ一石の米が溜まる。ね。そういう、例えば土壌の場というのが良い椛目のお広前だと思う。
 
 ね。そういう、お酒が沢山出来たらです、神様がです合楽教会という大きな受け物を酒樽のようなおかげをです、ね、神様が用意してくださるのではないかと思うのですね。
 今まで私はまあまず、受けものばいっちょ、つくらにゃ、受け物が作らなければ、おかげを受けられんとこういう風に申しましたが、尚更これが徳という事になったらそうである。
 ね。お徳を受けなければ、お徳を受けなければ、人間の幸せはない。金が出来たからといって幸せになるのではない。健康になったから幸せになるのではない。ね。お徳を受けなければ、この世は徳の船に乗ってわたらなければと仰る、その徳を受ける為にはです、ね、こういう場合に本気で私は(?)おかげを頂かねばならん。
 
 自分の中にあるところのです、ぶつぶつ、言いたいような事、言いたい放題の事を言うてです、一人こりを積ませるようなこともなし、本当に、自分の心の中に、ぶどう酒ならぶどう酒を造っていくというような、ブツブツを言いたいところをブツブツ言わせずに、蓋をしていくようなおかげを頂いてです、酒を作っていくという生き方と自分のいわば身を削ってからでも、自分がままになるといってから人の事は棚にあげておいてから、まず、(  ?  )、いってです、それでお酒を作らせて頂くというようなおかげを頂いたら、間違い無しに、沢山のお酒が出来るだろう。沢山のお酒が出来てから、始めて、神様おかげの受け物は神様が与えて下さるのだという事。

 始めて見た、始めてみるようなひょうたんのお供えを頂いてですたい、はあ神様はそういうような事を教えてござる気がしたんです。今まで考えておった事とは反対。受け物を作るのではない。まず、中身である所の物を作らなければならない。
 お広前が広い出来た所で、信者がちょこっとばっかりで集まってこなければどうするか。ね。椛目のお広前自体がです、いわゆる、溢れるような信者になり、自分の為にはその心の中にです、溢れるような、有り難き、勿体無きが出来て始めて、神様次の受け物は神様が用意して下さるだと。私共が用意するものじゃないと言うような事を感じます。
                             おかげを頂かねばなりません。